今は湖底に...石淵ダムと猿岩隧道(前編)
今は記憶の中の石淵ダムに逢いに行ったのは2012.9.23である。この数日前の新聞のめんこいテレビ(岩手の放送局だが八戸市は岩手に近いので見ることができる。)のニュースタイトルの〝ありがとう、石淵ダム〟に目が離せなくなった。その日のニュースは仕事で見ることはできなかったが、朝からそれで頭がいっぱいになり、検索したらあの有名な胆沢ダムの湖底に沈むの!?しかも、日本で初めて造られたロックフィルダムだってー!!それに円筒分水(時間がなく行けなかった)!それと、それと何々!?林鉄遺構の猿岩隧道(延長696m!長っ)があるなんて!!と私を興奮させる情報満載でしかも9月いっぱいで役目を終えるということは今行かないと後悔すると思い決行した。
石淵ダムは岩手県奥州市胆沢区にあるダムである。

まず八戸駅6:18に出発して盛岡行に乗り7:58着、そこからまた8:08水沢行きに乗り9:11水沢駅に着いた。

そして、そこから水沢駅前のバス亭から馬留線ひめかゆスキー場行きのバスに乗り

10:10ひめかゆスキー場に到着。胆沢ダムの工事看板がいっぱいある中

石淵ダムの看板あったー!早く逢いたい。

ん?くまさん?ここらへん色んな所で熊出没注意の看板あったな汗

胆沢ダム学習館。ここでこの時はまだ石淵ダムのダムカードもらえたのだけれど帰り寄ろうとしたけど時間がなさそうなのであきらめた。貰う時間はあっただろうけど帰り激しい雨になって濡れたまま女一人が入っていつたら怖がられそうなのでやめた。じわじわ後悔してる。

おっ!のっぺりとした一反木綿のような胆沢ダムが見えてきた。大きいなー。目の前には石淵ダムの看板があってこのダムが石淵ダムみたい。苦笑

このダムの放流迫力あるんだろうな。

この日は日曜日だったが一部で工事が行なわれていた。例の場所工事してたらどうしよ汗 重機がすごく小さく見えてミニチュアみたい。


胆沢ダムの今はダム本体、管理設備が完成し去年の2012.12月から試験湛水を開始している。来年2014.3月完成するらしい。今は試験湛水真っ只中で今月6日に貯水位最高水位に達した。
ダム形式:ロックフィルダム
ダム高:132,0m
堤頂長:723,0m
総貯水容量:143,0004㎥
なんと総貯水容量は今から見に行く石淵ダムの約9倍!!だそう。おそろしい。
望み大橋を通り、目の前に見えるひめかゆ橋を通って

望み大橋と胆沢ダム

二つ目の焼石トンネル出口から石淵ダムの看板がみえます。

この三つ目の石渕トンネルを抜けた左側の道(ロープが通せんぼしていた。)を入ると...

可愛い子(排水塔)が見えてきました。

石渕トンネルから抜けた所で前に車がとまって恐かった。こうゆう所歩いてて、車が前でとまるとなんとなく恐いよね。幸い?その車の横通る前の道入らなきゃいけなかったからよかったけど。

ワクワク、ドキドキ

耳を澄ませてみるとこちら側は重機や工事の音は聞こえなかった。ホッ
逢いたい一心で忍者のように歩く。ササッ

逢えたー!!感動で泣いてしまった。

もっと近くに行きたい。触れたい。


私来てしまったんだ。


それでは、今は湖底へ沈む前の約60年頑張ってくれた石淵ダムをご覧ください。




向こうに胆沢ダムが見えます。




この子に逢いたかった。完成後ほとんど供用されなかった排水塔だが素敵なオブジェ?石淵ダムのシンボルといえるのではないかな。上に網張ってコンクリートがボロボロになっているのは地震の影響らしい。(石淵ダムは今まで二度の大震災を耐え抜いている。)






取水塔。ピンクでかわいい。



悲しい看板。今はあの素敵な排水塔も取水塔もゲートも跡形もなくなりコンクリートの塊となってしまった。
右岸側(ダム本体にもっと近づく)行くにはここを通らなきゃ行けないのか。どうするムー?

ササッ 来ちゃった。

ちょっと崩れてるのも地震の影響。
とっても頬ずりしたかったけど止めておいた。笑
そのかわり手で触れてみた。暖かかった。撫でながらお疲れ様でした。今までありがとう。といって一礼した。おうよって答えてくれた気がした。

石淵ダムは高さ53メートルのダムで日本で最初に施工されたロックフィルダムである。コンクリートで上流部の水を遮る日本では5基しか存在しないコンクリートフェイシングフィルダムの一つだった。
終戦を迎え日本は極度な食糧不足に陥り、食糧増産が喫緊の課題となった政府は河川開発に関して灌漑施拡充による食糧増産を目論見、北上流域は江戸時代より一大穀倉地帯として稲作が盛んであったが北上川本流は松尾鉱山により流出する強酸性の坑内水により河水の酸性度が高く、農業用水には不適当であった。このため支流の河川を開発して灌漑用水を整備して農地拡大を図り食糧を増産する方針が採られ、1945年より国営事業として山王海ダムの建設が紫波郡で開始された。一方治水に重点を置いていた北上川上流改修事業についても灌漑整備優先の観点から、広大な胆沢扇状地を流域に持つ胆沢川の河川開発が注目されるようになり、以上の経緯により戦前より着手されていた田瀬ダムの建設を中断(太平洋戦争の激化により資材確保がままならなくなった)したまま胆沢川上流の多目的ダムが優先的に着手された。これが石淵ダムであり胆沢郡若柳村において1945年より建設が開始された。
それに伴い13世帯が移転を余儀なくされたが、食糧難解決という差し迫った国情が背景にあった中、工事を開始してから住民への補償交渉を開始するという状態であり、建設省の態度は移転交渉というよりは立ち退き要求に近いものがあった。ダム建設開始当時は日本国憲法の制定前であり、生存権など基本的人権はまだ浸透していなかった。さらに移転後の住民に対する生活再建対策も放置され、結果的にわずかな補償金しか受け取れなかった移転住民は失業の上困窮した生活を強いられ全財産を喪失した住民も現れた。最終的に再補償も認められなかった。住民がこういう辛い思いしてできたダムをなくしてさらに大きいダムを作らなきゃいけなかったんだろうか。
当時は重力式コンクリートダムとして計画されていたが、戦後の特殊な事情(セメントは進駐軍用あるいは戦災復興用の資材として優先利用されていたため。)によってロックフィルダムの場合は日本では施工例がなかったものの、ダム付近の地質が風化に乏しい良質な石英安山岩で、かつ発破により大量の岩石が採取可能であったことからセメント量と輸送コストの節減が期待され1946年より日本初のロックフィルダム施工が開始された。
まず、ダムサイト直上流部にある猿岩が堤体の材料となる原石山に選定され、これを火薬で爆破して岩石を採取しダム本体工事現場まで輸送。本体予定地に建設した橋の上より岩石を投下して、これを高圧水で締め固めてダム本体を盛りたてる工法である。昼夜兼行、厳寒の冬季にも作業が行なわれ、戦後の混乱期の事業であったことから資材や建設機械の不足、さらには労働力の不足に絶えず悩まされた。また、労務者の安全管理に乏しい時代で、頭部保護の保安帽を着用する労務者はなく作業着すら統一されていなかった。
さらには労働力不足を補うため服役囚が工事に従事する状況で厳しい環境の中で労務者はどぶろくを飲んだりし鋭気を養ったが、酒のつまみに死んだウサギを調理して食べた職員が野兎病に罹患するなどのハプニングもあった。こうした厳しい労務環境の中で述べ181万人の労務者が建設に従事し、1953年6月9日にダム本体は完成した。ダム着工から8年の歳月を要した。
幾多の困難があったがその後、慢性的な水不足から解放され安定した水供給が可能となり、水争いが根絶された胆沢扇状地の受益住民は報恩の意味を込め「胆沢平野小唄」という小唄の一節に石淵ダムの名を入れている。
照ればかんばつ 曇れば出水 それも昔の語り草 見れや自慢の 石淵ダムは 伸びる胆沢の 底力
本当は9月いっぱいで役割を終える予定で10月1日には胆沢ダムとの引き継ぎ式が行われる予定だったが、なんとその日に台風17号が襲来し石淵ダムに過去5番目の大雨の流入があり、管理終了予定を延長して10月2日まで洪水調節を行ったという。これを打っている間も胸がいっぱいになり泣けてくる。最後の最後までなんてかっこいいおじいちゃんなんだ。
これで石淵ダム本来の役割は終えたが今後は堤体本体はそのまま残り、湖底の土砂が下流に流れ込むのを防ぐ「貯砂ダム」として新たな役割を担うことになるそうだ。じゃあ、渇水期には石淵ダムに逢えるのかな。その時にはまた行きたいと思う。本当に本当に逢いに行ってよかった。石淵ダム、ありがとう!!
後編はまたまた可愛いこの子です。ふふっ


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石淵ダムは岩手県奥州市胆沢区にあるダムである。

まず八戸駅6:18に出発して盛岡行に乗り7:58着、そこからまた8:08水沢行きに乗り9:11水沢駅に着いた。

そして、そこから水沢駅前のバス亭から馬留線ひめかゆスキー場行きのバスに乗り

10:10ひめかゆスキー場に到着。胆沢ダムの工事看板がいっぱいある中

石淵ダムの看板あったー!早く逢いたい。

ん?くまさん?ここらへん色んな所で熊出没注意の看板あったな汗

胆沢ダム学習館。ここでこの時はまだ石淵ダムのダムカードもらえたのだけれど帰り寄ろうとしたけど時間がなさそうなのであきらめた。貰う時間はあっただろうけど帰り激しい雨になって濡れたまま女一人が入っていつたら怖がられそうなのでやめた。じわじわ後悔してる。

おっ!のっぺりとした一反木綿のような胆沢ダムが見えてきた。大きいなー。目の前には石淵ダムの看板があってこのダムが石淵ダムみたい。苦笑

このダムの放流迫力あるんだろうな。

この日は日曜日だったが一部で工事が行なわれていた。例の場所工事してたらどうしよ汗 重機がすごく小さく見えてミニチュアみたい。


胆沢ダムの今はダム本体、管理設備が完成し去年の2012.12月から試験湛水を開始している。来年2014.3月完成するらしい。今は試験湛水真っ只中で今月6日に貯水位最高水位に達した。
ダム形式:ロックフィルダム
ダム高:132,0m
堤頂長:723,0m
総貯水容量:143,0004㎥
なんと総貯水容量は今から見に行く石淵ダムの約9倍!!だそう。おそろしい。
望み大橋を通り、目の前に見えるひめかゆ橋を通って

望み大橋と胆沢ダム

二つ目の焼石トンネル出口から石淵ダムの看板がみえます。

この三つ目の石渕トンネルを抜けた左側の道(ロープが通せんぼしていた。)を入ると...

可愛い子(排水塔)が見えてきました。

石渕トンネルから抜けた所で前に車がとまって恐かった。こうゆう所歩いてて、車が前でとまるとなんとなく恐いよね。幸い?その車の横通る前の道入らなきゃいけなかったからよかったけど。

ワクワク、ドキドキ

耳を澄ませてみるとこちら側は重機や工事の音は聞こえなかった。ホッ
逢いたい一心で忍者のように歩く。ササッ

逢えたー!!感動で泣いてしまった。

もっと近くに行きたい。触れたい。


私来てしまったんだ。


それでは、今は湖底へ沈む前の約60年頑張ってくれた石淵ダムをご覧ください。




向こうに胆沢ダムが見えます。




この子に逢いたかった。完成後ほとんど供用されなかった排水塔だが素敵なオブジェ?石淵ダムのシンボルといえるのではないかな。上に網張ってコンクリートがボロボロになっているのは地震の影響らしい。(石淵ダムは今まで二度の大震災を耐え抜いている。)






取水塔。ピンクでかわいい。



悲しい看板。今はあの素敵な排水塔も取水塔もゲートも跡形もなくなりコンクリートの塊となってしまった。
右岸側(ダム本体にもっと近づく)行くにはここを通らなきゃ行けないのか。どうするムー?

ササッ 来ちゃった。

ちょっと崩れてるのも地震の影響。
とっても頬ずりしたかったけど止めておいた。笑
そのかわり手で触れてみた。暖かかった。撫でながらお疲れ様でした。今までありがとう。といって一礼した。おうよって答えてくれた気がした。

石淵ダムは高さ53メートルのダムで日本で最初に施工されたロックフィルダムである。コンクリートで上流部の水を遮る日本では5基しか存在しないコンクリートフェイシングフィルダムの一つだった。
終戦を迎え日本は極度な食糧不足に陥り、食糧増産が喫緊の課題となった政府は河川開発に関して灌漑施拡充による食糧増産を目論見、北上流域は江戸時代より一大穀倉地帯として稲作が盛んであったが北上川本流は松尾鉱山により流出する強酸性の坑内水により河水の酸性度が高く、農業用水には不適当であった。このため支流の河川を開発して灌漑用水を整備して農地拡大を図り食糧を増産する方針が採られ、1945年より国営事業として山王海ダムの建設が紫波郡で開始された。一方治水に重点を置いていた北上川上流改修事業についても灌漑整備優先の観点から、広大な胆沢扇状地を流域に持つ胆沢川の河川開発が注目されるようになり、以上の経緯により戦前より着手されていた田瀬ダムの建設を中断(太平洋戦争の激化により資材確保がままならなくなった)したまま胆沢川上流の多目的ダムが優先的に着手された。これが石淵ダムであり胆沢郡若柳村において1945年より建設が開始された。
それに伴い13世帯が移転を余儀なくされたが、食糧難解決という差し迫った国情が背景にあった中、工事を開始してから住民への補償交渉を開始するという状態であり、建設省の態度は移転交渉というよりは立ち退き要求に近いものがあった。ダム建設開始当時は日本国憲法の制定前であり、生存権など基本的人権はまだ浸透していなかった。さらに移転後の住民に対する生活再建対策も放置され、結果的にわずかな補償金しか受け取れなかった移転住民は失業の上困窮した生活を強いられ全財産を喪失した住民も現れた。最終的に再補償も認められなかった。住民がこういう辛い思いしてできたダムをなくしてさらに大きいダムを作らなきゃいけなかったんだろうか。
当時は重力式コンクリートダムとして計画されていたが、戦後の特殊な事情(セメントは進駐軍用あるいは戦災復興用の資材として優先利用されていたため。)によってロックフィルダムの場合は日本では施工例がなかったものの、ダム付近の地質が風化に乏しい良質な石英安山岩で、かつ発破により大量の岩石が採取可能であったことからセメント量と輸送コストの節減が期待され1946年より日本初のロックフィルダム施工が開始された。
まず、ダムサイト直上流部にある猿岩が堤体の材料となる原石山に選定され、これを火薬で爆破して岩石を採取しダム本体工事現場まで輸送。本体予定地に建設した橋の上より岩石を投下して、これを高圧水で締め固めてダム本体を盛りたてる工法である。昼夜兼行、厳寒の冬季にも作業が行なわれ、戦後の混乱期の事業であったことから資材や建設機械の不足、さらには労働力の不足に絶えず悩まされた。また、労務者の安全管理に乏しい時代で、頭部保護の保安帽を着用する労務者はなく作業着すら統一されていなかった。
さらには労働力不足を補うため服役囚が工事に従事する状況で厳しい環境の中で労務者はどぶろくを飲んだりし鋭気を養ったが、酒のつまみに死んだウサギを調理して食べた職員が野兎病に罹患するなどのハプニングもあった。こうした厳しい労務環境の中で述べ181万人の労務者が建設に従事し、1953年6月9日にダム本体は完成した。ダム着工から8年の歳月を要した。
幾多の困難があったがその後、慢性的な水不足から解放され安定した水供給が可能となり、水争いが根絶された胆沢扇状地の受益住民は報恩の意味を込め「胆沢平野小唄」という小唄の一節に石淵ダムの名を入れている。
照ればかんばつ 曇れば出水 それも昔の語り草 見れや自慢の 石淵ダムは 伸びる胆沢の 底力
本当は9月いっぱいで役割を終える予定で10月1日には胆沢ダムとの引き継ぎ式が行われる予定だったが、なんとその日に台風17号が襲来し石淵ダムに過去5番目の大雨の流入があり、管理終了予定を延長して10月2日まで洪水調節を行ったという。これを打っている間も胸がいっぱいになり泣けてくる。最後の最後までなんてかっこいいおじいちゃんなんだ。
これで石淵ダム本来の役割は終えたが今後は堤体本体はそのまま残り、湖底の土砂が下流に流れ込むのを防ぐ「貯砂ダム」として新たな役割を担うことになるそうだ。じゃあ、渇水期には石淵ダムに逢えるのかな。その時にはまた行きたいと思う。本当に本当に逢いに行ってよかった。石淵ダム、ありがとう!!
後編はまたまた可愛いこの子です。ふふっ


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