エンドレス2
この前、浅虫にある土屋バイパスの下に見える旧国道4号線沿いにあるラブホテル廃墟に行ってきました。土屋バイパスができる前は青森市に行く時いつもここを通っていて気付いた時にはもう廃墟でとても気になっていたところ。
今は通り抜けできませんの看板があったりバイパスから丸見えだったり色々気まずいです。


懐かしの今は廃墟の遊園地の看板が残っていた。でも、名前マリンパーク浅虫って名前の時あったんだ。私の記憶ではキディランド浅虫→ワンダーランド浅虫しか知らない。

到着。バイパスの車の通り(朝でも通りが激しい)が途切れるのを待って...


突入!

ここから入りました。

とても荒れています。

1階のお部屋から見ていきます。

もはや非常口ではない。

まっすぐ続く廃墟の廊下好きだ。

かわいい。カントリーな作り?

こうやって撮ると怖いね。

なんで自転車が?

洗面所♪

では、2階へ。階段の小窓から青い森鉄道のモーリー君電車が走っていった。

2階への扉。ギィィ


明るい部屋と暗い部屋が混在。

うわぁ!でたーーー

このドアだけ見ているとまだ営業しているみたい。

廊下の真ん中にある階段。ピンクでかわいいな。


ここだけベットも壁紙もなくなぜかトイレだけポツンとあってあまりいいものではなかった。

ガラスのドア。

この部屋の天井照らしたら

えっ?パーティ!?でもしたのかな。

全部の部屋みたけどここが一番好き。


私は廃城のお姫様♪とか言ってー





覗き穴から覗いてみた。

この部屋では天井のオブジェがスコンと落ちていた。

ここから早く出たいよ!とか言って


中を抜けだし裏側へ

裏側に人知れずひっそりと美しい薔薇が咲いていた。とても愛おしい。



ボイラー室。

ドアたちの残骸。

このイバラの影でまた、バイパスの車が途切れるのを見計らって脱出。

山がとても奇麗。ほたて広場を通った時、井上陽水の「いっそセレナーデ」が流れていて恍惚感でいっぱいになったのだった。


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今は通り抜けできませんの看板があったりバイパスから丸見えだったり色々気まずいです。


懐かしの今は廃墟の遊園地の看板が残っていた。でも、名前マリンパーク浅虫って名前の時あったんだ。私の記憶ではキディランド浅虫→ワンダーランド浅虫しか知らない。

到着。バイパスの車の通り(朝でも通りが激しい)が途切れるのを待って...


突入!

ここから入りました。

とても荒れています。

1階のお部屋から見ていきます。

もはや非常口ではない。

まっすぐ続く廃墟の廊下好きだ。

かわいい。カントリーな作り?

こうやって撮ると怖いね。

なんで自転車が?

洗面所♪

では、2階へ。階段の小窓から青い森鉄道のモーリー君電車が走っていった。

2階への扉。ギィィ


明るい部屋と暗い部屋が混在。

うわぁ!でたーーー

このドアだけ見ているとまだ営業しているみたい。

廊下の真ん中にある階段。ピンクでかわいいな。


ここだけベットも壁紙もなくなぜかトイレだけポツンとあってあまりいいものではなかった。

ガラスのドア。

この部屋の天井照らしたら

えっ?パーティ!?でもしたのかな。

全部の部屋みたけどここが一番好き。


私は廃城のお姫様♪とか言ってー





覗き穴から覗いてみた。

この部屋では天井のオブジェがスコンと落ちていた。

ここから早く出たいよ!とか言って


中を抜けだし裏側へ

裏側に人知れずひっそりと美しい薔薇が咲いていた。とても愛おしい。



ボイラー室。

ドアたちの残骸。

このイバラの影でまた、バイパスの車が途切れるのを見計らって脱出。

山がとても奇麗。ほたて広場を通った時、井上陽水の「いっそセレナーデ」が流れていて恍惚感でいっぱいになったのだった。


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おもしろグッズたち
先日、妹が東京に行ってきた時にジュンク堂書店(ずっとジャンク堂だと思っていた。恥)で買ってきてもらったものたち↓

マニアパレルのダム カタカナT(本当はローマ字の方がよかったけどなかったみたい)、40高中T(今は廃止されている道路標示)、全国主要酷道標識手ぬぐい。
あとは、廃道マグカップ(これでお茶やコーヒー飲むと格別おいしいョ?)、ヨッキれんさんのサイトの山行がストラップ。危瞼(旧書体)警戒標識Tシャツも欲しかったが妹にメッシュ素材だよと言われてやめた。(メッシュ素材は苦手)
次は私の愛読するPDF誌「日本の廃道」のグッズ、柱本Tシャツwith長い猫。かっこいい!みなさんもどうですか!?

裏のデザイン。チロくんの毛ついてる。汗 Sサイズ買ったけどチビなのでちょっと大きかったからもっと小さいサイズでもよかったな。また、頼もっと。次は何色にしようかな...

これでいっぱい探索するんだー

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マニアパレルのダム カタカナT(本当はローマ字の方がよかったけどなかったみたい)、40高中T(今は廃止されている道路標示)、全国主要酷道標識手ぬぐい。
あとは、廃道マグカップ(これでお茶やコーヒー飲むと格別おいしいョ?)、ヨッキれんさんのサイトの山行がストラップ。危瞼(旧書体)警戒標識Tシャツも欲しかったが妹にメッシュ素材だよと言われてやめた。(メッシュ素材は苦手)
次は私の愛読するPDF誌「日本の廃道」のグッズ、柱本Tシャツwith長い猫。かっこいい!みなさんもどうですか!?

裏のデザイン。チロくんの毛ついてる。汗 Sサイズ買ったけどチビなのでちょっと大きかったからもっと小さいサイズでもよかったな。また、頼もっと。次は何色にしようかな...

これでいっぱい探索するんだー

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今は湖底に...石淵ダムと猿岩隧道(後編)
前回の続き...
私にはもう一つ絶対逢いに行かなきゃならないものがある。それは、石淵ダム上流右岸側にある、総延長696mの林鉄(若柳林鉄)由来の林道隧道の猿岩隧道である。標高549mの猿岩と呼ばれる小高い岩山を貫いている。1945年に石淵ダム工事の代替ルートとして掘削された。
隧道ができる前は「国有林森林鉄道 全データ 東北編」という本によると猿岩をぐるっと巻いて軌道が続いていたようです。1967年に廃線になったということは石淵ダムが1953年完成後も14年間は存続していたのですね。先ほどの本の地図を見てみると石淵ダムのダム湖では右岸にほとんど沿って軌道があり、水没した所が少なそうなので胆沢ダムができる前は林鉄遺構など目にすることができたんだろうな。探索してみたかった。
石淵ダムのロックフィル部は猿岩で採取された岩石をトロッコ軌道でダム堤体まで運び、ダム堤体と同じ位に築かれた橋の上から落とし岩石を積み上げていたそうなので、その際に猿岩隧道も使用されたのかな?だとすると、約60年後に完成した胆沢ダムの建設工事用道路としても使われたので2つのダム建設に携わっていたのだったらすごいなぁ。
でも本当は胆沢ダム堤体材として切り崩すことが決まっていたらしいがここは於呂閉志(おろへし)神社の奥宮が鎮座する民俗信仰の聖地であったことや胆沢扇状地は深刻な水問題に悩まされ、猿岩は苦難する人々を励ますように見守ってきたらしい。胆沢扇状地の歴史は水と猿岩を軸に展開してきたと言えるようだ。ということからこの奇岩を保存し建設省が堤体材を他に求めると発表したそうだ。こうゆう形で携わってほしくないから本当によかった。
もうほとんど水のない石淵湖に目をやると可愛い子発見!!さて、右岸側にどう行こうか猿岩隧道を見つめながら笑 左岸側をウロウロ。(この時はまだ堤体前の橋を行く勇気はなく)向こうに付け替え林道の新しい橋が見える。あそこを目指そう。と思い行ったが...



ここを抜けた先に付け替え林道があったがまだ出来ていないらしく立ち入り禁止ならまだしも監視カメラ作動中の看板見てビビりなぜかツブ沼キャンプ場まで行ってしまい一旦考え結局そそくさまた戻ったよ。

あーやっぱりここ↓通らなきゃ行けないよね。石淵ダムのロックフィルにも触れたいし…

と意を決して、また忍者のようにササッと通り、途中で石淵ダムに触れ、どっかで私の姿がチョロチョロ見えたら熊とでも思って下さいと願いながら。念願の右岸側へ到着。
途中で砂防ダムだけが私を見ていた。胆沢ダム本体の方から聞こえる重機の音はしだいに遠のいていき...

まっすぐ進むと左にちょっとカーブしている向こうには...ドキドキ
逢えたー逢えたよ!日曜日も工事真っ最中って見たから逢えないかもと思っていたから本当にうれしい。
と喜んだのも束の間この一枚を最後にカメラのバッテリーがなくなり(バカバカ自分っ)この後はアマダナのポケットビデオカメラの画像だからボヤボヤしてます。

こちら側の坑門はコンクリートでお化粧されています。扁額にもちゃんと猿岩隧道の文字があります。



まっすぐな隧道だからずーっと向こうに光が見えます。でも、長いから光が小さい。
ライトを準備していざ中へ。

最初だけコンクリート舗装ですが途中から出口までボコボコまるで体内のような荒々しい波打ったような岩肌の素掘りになります。このカメラじゃ伝えれなくてすごく残念。迫力がすごくライト照らしてもほとんど真っ暗でだんだん小走りに笑 でも、向こうに光が見えるからよかったけれど。目瞑って歩いてみたら自分がぎゅーっと小さくなるような感覚になった。
今はないがこの先に家があったらしいから毎日通っていたんだろうな。遠い目
そして、天井を照らしてみたシリーズ。


これは電線を通すための碍子の土台。

もうすぐ出口!

こちらの坑門は素掘りのままで私の好み。上にある岩のスケールが大きい。隧道が更に小さく見える。この強固な岩盤を少しずつ少しずつ堀り進んだ苦労は計り知れない。

素掘りでもこちら側もちゃんと扁額があった。

よし、帰ろう。さらに向こうにも行ってみたかったしここで佇んでいたかったけど、バスの時刻が近づきまた、この隧道を戻ることに。ちなみにこの隧道にも触れ暖かく感じた。
また、この隧道を戻らなきゃいけないのかと内心思ったが隧道内の途中から突然白い蝶が私の周りを飛んだあと前を左右に揺れながら飛んでいて、まるで光へと導いてくれているようで自然と笑顔になった。いや。猿岩隧道に近づいた時からニヤニヤしていたけど。
バイバイ、またいつか。今は猿岩隧道も湖底で眠っているが渇水期に顔だしてくれないかな。楽しみだ。
今、ネットで胆沢ダムのライブカメラ?を見たが猿岩隧道と石淵ダムの姿形がまったく見えない。なんとも言えない気持ちになった。
右岸側から見た石淵ダム。この時はダム工事で木や草など刈りはらわれていて向こう岸が丸見えだが、この辺は鬱蒼とした林道だったんだろうな。

そして、ゴール。帰りは大雨になってしまったが私の心は晴れやかだった。画像は石渕トンネル脇の道。

私が行った後日最後の石淵ダムウォーキングが開催されたらしいがその時くまさんが出たらしい。うぎゃー

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猿岩隧道の動画ありマス。ユラユラしているので気分を悪くしてしまうかも。
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私にはもう一つ絶対逢いに行かなきゃならないものがある。それは、石淵ダム上流右岸側にある、総延長696mの林鉄(若柳林鉄)由来の林道隧道の猿岩隧道である。標高549mの猿岩と呼ばれる小高い岩山を貫いている。1945年に石淵ダム工事の代替ルートとして掘削された。
隧道ができる前は「国有林森林鉄道 全データ 東北編」という本によると猿岩をぐるっと巻いて軌道が続いていたようです。1967年に廃線になったということは石淵ダムが1953年完成後も14年間は存続していたのですね。先ほどの本の地図を見てみると石淵ダムのダム湖では右岸にほとんど沿って軌道があり、水没した所が少なそうなので胆沢ダムができる前は林鉄遺構など目にすることができたんだろうな。探索してみたかった。
石淵ダムのロックフィル部は猿岩で採取された岩石をトロッコ軌道でダム堤体まで運び、ダム堤体と同じ位に築かれた橋の上から落とし岩石を積み上げていたそうなので、その際に猿岩隧道も使用されたのかな?だとすると、約60年後に完成した胆沢ダムの建設工事用道路としても使われたので2つのダム建設に携わっていたのだったらすごいなぁ。
でも本当は胆沢ダム堤体材として切り崩すことが決まっていたらしいがここは於呂閉志(おろへし)神社の奥宮が鎮座する民俗信仰の聖地であったことや胆沢扇状地は深刻な水問題に悩まされ、猿岩は苦難する人々を励ますように見守ってきたらしい。胆沢扇状地の歴史は水と猿岩を軸に展開してきたと言えるようだ。ということからこの奇岩を保存し建設省が堤体材を他に求めると発表したそうだ。こうゆう形で携わってほしくないから本当によかった。
もうほとんど水のない石淵湖に目をやると可愛い子発見!!さて、右岸側にどう行こうか猿岩隧道を見つめながら笑 左岸側をウロウロ。(この時はまだ堤体前の橋を行く勇気はなく)向こうに付け替え林道の新しい橋が見える。あそこを目指そう。と思い行ったが...



ここを抜けた先に付け替え林道があったがまだ出来ていないらしく立ち入り禁止ならまだしも監視カメラ作動中の看板見てビビりなぜかツブ沼キャンプ場まで行ってしまい一旦考え結局そそくさまた戻ったよ。

あーやっぱりここ↓通らなきゃ行けないよね。石淵ダムのロックフィルにも触れたいし…

と意を決して、また忍者のようにササッと通り、途中で石淵ダムに触れ、どっかで私の姿がチョロチョロ見えたら熊とでも思って下さいと願いながら。念願の右岸側へ到着。
途中で砂防ダムだけが私を見ていた。胆沢ダム本体の方から聞こえる重機の音はしだいに遠のいていき...

まっすぐ進むと左にちょっとカーブしている向こうには...ドキドキ
逢えたー逢えたよ!日曜日も工事真っ最中って見たから逢えないかもと思っていたから本当にうれしい。
と喜んだのも束の間この一枚を最後にカメラのバッテリーがなくなり(バカバカ自分っ)この後はアマダナのポケットビデオカメラの画像だからボヤボヤしてます。

こちら側の坑門はコンクリートでお化粧されています。扁額にもちゃんと猿岩隧道の文字があります。



まっすぐな隧道だからずーっと向こうに光が見えます。でも、長いから光が小さい。
ライトを準備していざ中へ。

最初だけコンクリート舗装ですが途中から出口までボコボコまるで体内のような荒々しい波打ったような岩肌の素掘りになります。このカメラじゃ伝えれなくてすごく残念。迫力がすごくライト照らしてもほとんど真っ暗でだんだん小走りに笑 でも、向こうに光が見えるからよかったけれど。目瞑って歩いてみたら自分がぎゅーっと小さくなるような感覚になった。
今はないがこの先に家があったらしいから毎日通っていたんだろうな。遠い目
そして、天井を照らしてみたシリーズ。


これは電線を通すための碍子の土台。

もうすぐ出口!

こちらの坑門は素掘りのままで私の好み。上にある岩のスケールが大きい。隧道が更に小さく見える。この強固な岩盤を少しずつ少しずつ堀り進んだ苦労は計り知れない。

素掘りでもこちら側もちゃんと扁額があった。

よし、帰ろう。さらに向こうにも行ってみたかったしここで佇んでいたかったけど、バスの時刻が近づきまた、この隧道を戻ることに。ちなみにこの隧道にも触れ暖かく感じた。
また、この隧道を戻らなきゃいけないのかと内心思ったが隧道内の途中から突然白い蝶が私の周りを飛んだあと前を左右に揺れながら飛んでいて、まるで光へと導いてくれているようで自然と笑顔になった。いや。猿岩隧道に近づいた時からニヤニヤしていたけど。
バイバイ、またいつか。今は猿岩隧道も湖底で眠っているが渇水期に顔だしてくれないかな。楽しみだ。
今、ネットで胆沢ダムのライブカメラ?を見たが猿岩隧道と石淵ダムの姿形がまったく見えない。なんとも言えない気持ちになった。
右岸側から見た石淵ダム。この時はダム工事で木や草など刈りはらわれていて向こう岸が丸見えだが、この辺は鬱蒼とした林道だったんだろうな。

そして、ゴール。帰りは大雨になってしまったが私の心は晴れやかだった。画像は石渕トンネル脇の道。

私が行った後日最後の石淵ダムウォーキングが開催されたらしいがその時くまさんが出たらしい。うぎゃー

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今は湖底に...石淵ダムと猿岩隧道(前編)
今は記憶の中の石淵ダムに逢いに行ったのは2012.9.23である。この数日前の新聞のめんこいテレビ(岩手の放送局だが八戸市は岩手に近いので見ることができる。)のニュースタイトルの〝ありがとう、石淵ダム〟に目が離せなくなった。その日のニュースは仕事で見ることはできなかったが、朝からそれで頭がいっぱいになり、検索したらあの有名な胆沢ダムの湖底に沈むの!?しかも、日本で初めて造られたロックフィルダムだってー!!それに円筒分水(時間がなく行けなかった)!それと、それと何々!?林鉄遺構の猿岩隧道(延長696m!長っ)があるなんて!!と私を興奮させる情報満載でしかも9月いっぱいで役目を終えるということは今行かないと後悔すると思い決行した。
石淵ダムは岩手県奥州市胆沢区にあるダムである。

まず八戸駅6:18に出発して盛岡行に乗り7:58着、そこからまた8:08水沢行きに乗り9:11水沢駅に着いた。

そして、そこから水沢駅前のバス亭から馬留線ひめかゆスキー場行きのバスに乗り

10:10ひめかゆスキー場に到着。胆沢ダムの工事看板がいっぱいある中

石淵ダムの看板あったー!早く逢いたい。

ん?くまさん?ここらへん色んな所で熊出没注意の看板あったな汗

胆沢ダム学習館。ここでこの時はまだ石淵ダムのダムカードもらえたのだけれど帰り寄ろうとしたけど時間がなさそうなのであきらめた。貰う時間はあっただろうけど帰り激しい雨になって濡れたまま女一人が入っていつたら怖がられそうなのでやめた。じわじわ後悔してる。

おっ!のっぺりとした一反木綿のような胆沢ダムが見えてきた。大きいなー。目の前には石淵ダムの看板があってこのダムが石淵ダムみたい。苦笑

このダムの放流迫力あるんだろうな。

この日は日曜日だったが一部で工事が行なわれていた。例の場所工事してたらどうしよ汗 重機がすごく小さく見えてミニチュアみたい。


胆沢ダムの今はダム本体、管理設備が完成し去年の2012.12月から試験湛水を開始している。来年2014.3月完成するらしい。今は試験湛水真っ只中で今月6日に貯水位最高水位に達した。
ダム形式:ロックフィルダム
ダム高:132,0m
堤頂長:723,0m
総貯水容量:143,0004㎥
なんと総貯水容量は今から見に行く石淵ダムの約9倍!!だそう。おそろしい。
望み大橋を通り、目の前に見えるひめかゆ橋を通って

望み大橋と胆沢ダム

二つ目の焼石トンネル出口から石淵ダムの看板がみえます。

この三つ目の石渕トンネルを抜けた左側の道(ロープが通せんぼしていた。)を入ると...

可愛い子(排水塔)が見えてきました。

石渕トンネルから抜けた所で前に車がとまって恐かった。こうゆう所歩いてて、車が前でとまるとなんとなく恐いよね。幸い?その車の横通る前の道入らなきゃいけなかったからよかったけど。

ワクワク、ドキドキ

耳を澄ませてみるとこちら側は重機や工事の音は聞こえなかった。ホッ
逢いたい一心で忍者のように歩く。ササッ

逢えたー!!感動で泣いてしまった。

もっと近くに行きたい。触れたい。


私来てしまったんだ。


それでは、今は湖底へ沈む前の約60年頑張ってくれた石淵ダムをご覧ください。




向こうに胆沢ダムが見えます。




この子に逢いたかった。完成後ほとんど供用されなかった排水塔だが素敵なオブジェ?石淵ダムのシンボルといえるのではないかな。上に網張ってコンクリートがボロボロになっているのは地震の影響らしい。(石淵ダムは今まで二度の大震災を耐え抜いている。)






取水塔。ピンクでかわいい。



悲しい看板。今はあの素敵な排水塔も取水塔もゲートも跡形もなくなりコンクリートの塊となってしまった。
右岸側(ダム本体にもっと近づく)行くにはここを通らなきゃ行けないのか。どうするムー?

ササッ 来ちゃった。

ちょっと崩れてるのも地震の影響。
とっても頬ずりしたかったけど止めておいた。笑
そのかわり手で触れてみた。暖かかった。撫でながらお疲れ様でした。今までありがとう。といって一礼した。おうよって答えてくれた気がした。

石淵ダムは高さ53メートルのダムで日本で最初に施工されたロックフィルダムである。コンクリートで上流部の水を遮る日本では5基しか存在しないコンクリートフェイシングフィルダムの一つだった。
終戦を迎え日本は極度な食糧不足に陥り、食糧増産が喫緊の課題となった政府は河川開発に関して灌漑施拡充による食糧増産を目論見、北上流域は江戸時代より一大穀倉地帯として稲作が盛んであったが北上川本流は松尾鉱山により流出する強酸性の坑内水により河水の酸性度が高く、農業用水には不適当であった。このため支流の河川を開発して灌漑用水を整備して農地拡大を図り食糧を増産する方針が採られ、1945年より国営事業として山王海ダムの建設が紫波郡で開始された。一方治水に重点を置いていた北上川上流改修事業についても灌漑整備優先の観点から、広大な胆沢扇状地を流域に持つ胆沢川の河川開発が注目されるようになり、以上の経緯により戦前より着手されていた田瀬ダムの建設を中断(太平洋戦争の激化により資材確保がままならなくなった)したまま胆沢川上流の多目的ダムが優先的に着手された。これが石淵ダムであり胆沢郡若柳村において1945年より建設が開始された。
それに伴い13世帯が移転を余儀なくされたが、食糧難解決という差し迫った国情が背景にあった中、工事を開始してから住民への補償交渉を開始するという状態であり、建設省の態度は移転交渉というよりは立ち退き要求に近いものがあった。ダム建設開始当時は日本国憲法の制定前であり、生存権など基本的人権はまだ浸透していなかった。さらに移転後の住民に対する生活再建対策も放置され、結果的にわずかな補償金しか受け取れなかった移転住民は失業の上困窮した生活を強いられ全財産を喪失した住民も現れた。最終的に再補償も認められなかった。住民がこういう辛い思いしてできたダムをなくしてさらに大きいダムを作らなきゃいけなかったんだろうか。
当時は重力式コンクリートダムとして計画されていたが、戦後の特殊な事情(セメントは進駐軍用あるいは戦災復興用の資材として優先利用されていたため。)によってロックフィルダムの場合は日本では施工例がなかったものの、ダム付近の地質が風化に乏しい良質な石英安山岩で、かつ発破により大量の岩石が採取可能であったことからセメント量と輸送コストの節減が期待され1946年より日本初のロックフィルダム施工が開始された。
まず、ダムサイト直上流部にある猿岩が堤体の材料となる原石山に選定され、これを火薬で爆破して岩石を採取しダム本体工事現場まで輸送。本体予定地に建設した橋の上より岩石を投下して、これを高圧水で締め固めてダム本体を盛りたてる工法である。昼夜兼行、厳寒の冬季にも作業が行なわれ、戦後の混乱期の事業であったことから資材や建設機械の不足、さらには労働力の不足に絶えず悩まされた。また、労務者の安全管理に乏しい時代で、頭部保護の保安帽を着用する労務者はなく作業着すら統一されていなかった。
さらには労働力不足を補うため服役囚が工事に従事する状況で厳しい環境の中で労務者はどぶろくを飲んだりし鋭気を養ったが、酒のつまみに死んだウサギを調理して食べた職員が野兎病に罹患するなどのハプニングもあった。こうした厳しい労務環境の中で述べ181万人の労務者が建設に従事し、1953年6月9日にダム本体は完成した。ダム着工から8年の歳月を要した。
幾多の困難があったがその後、慢性的な水不足から解放され安定した水供給が可能となり、水争いが根絶された胆沢扇状地の受益住民は報恩の意味を込め「胆沢平野小唄」という小唄の一節に石淵ダムの名を入れている。
照ればかんばつ 曇れば出水 それも昔の語り草 見れや自慢の 石淵ダムは 伸びる胆沢の 底力
本当は9月いっぱいで役割を終える予定で10月1日には胆沢ダムとの引き継ぎ式が行われる予定だったが、なんとその日に台風17号が襲来し石淵ダムに過去5番目の大雨の流入があり、管理終了予定を延長して10月2日まで洪水調節を行ったという。これを打っている間も胸がいっぱいになり泣けてくる。最後の最後までなんてかっこいいおじいちゃんなんだ。
これで石淵ダム本来の役割は終えたが今後は堤体本体はそのまま残り、湖底の土砂が下流に流れ込むのを防ぐ「貯砂ダム」として新たな役割を担うことになるそうだ。じゃあ、渇水期には石淵ダムに逢えるのかな。その時にはまた行きたいと思う。本当に本当に逢いに行ってよかった。石淵ダム、ありがとう!!
後編はまたまた可愛いこの子です。ふふっ


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石淵ダム動画アルヨ
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石淵ダムは岩手県奥州市胆沢区にあるダムである。

まず八戸駅6:18に出発して盛岡行に乗り7:58着、そこからまた8:08水沢行きに乗り9:11水沢駅に着いた。

そして、そこから水沢駅前のバス亭から馬留線ひめかゆスキー場行きのバスに乗り

10:10ひめかゆスキー場に到着。胆沢ダムの工事看板がいっぱいある中

石淵ダムの看板あったー!早く逢いたい。

ん?くまさん?ここらへん色んな所で熊出没注意の看板あったな汗

胆沢ダム学習館。ここでこの時はまだ石淵ダムのダムカードもらえたのだけれど帰り寄ろうとしたけど時間がなさそうなのであきらめた。貰う時間はあっただろうけど帰り激しい雨になって濡れたまま女一人が入っていつたら怖がられそうなのでやめた。じわじわ後悔してる。

おっ!のっぺりとした一反木綿のような胆沢ダムが見えてきた。大きいなー。目の前には石淵ダムの看板があってこのダムが石淵ダムみたい。苦笑

このダムの放流迫力あるんだろうな。

この日は日曜日だったが一部で工事が行なわれていた。例の場所工事してたらどうしよ汗 重機がすごく小さく見えてミニチュアみたい。


胆沢ダムの今はダム本体、管理設備が完成し去年の2012.12月から試験湛水を開始している。来年2014.3月完成するらしい。今は試験湛水真っ只中で今月6日に貯水位最高水位に達した。
ダム形式:ロックフィルダム
ダム高:132,0m
堤頂長:723,0m
総貯水容量:143,0004㎥
なんと総貯水容量は今から見に行く石淵ダムの約9倍!!だそう。おそろしい。
望み大橋を通り、目の前に見えるひめかゆ橋を通って

望み大橋と胆沢ダム

二つ目の焼石トンネル出口から石淵ダムの看板がみえます。

この三つ目の石渕トンネルを抜けた左側の道(ロープが通せんぼしていた。)を入ると...

可愛い子(排水塔)が見えてきました。

石渕トンネルから抜けた所で前に車がとまって恐かった。こうゆう所歩いてて、車が前でとまるとなんとなく恐いよね。幸い?その車の横通る前の道入らなきゃいけなかったからよかったけど。

ワクワク、ドキドキ

耳を澄ませてみるとこちら側は重機や工事の音は聞こえなかった。ホッ
逢いたい一心で忍者のように歩く。ササッ

逢えたー!!感動で泣いてしまった。

もっと近くに行きたい。触れたい。


私来てしまったんだ。


それでは、今は湖底へ沈む前の約60年頑張ってくれた石淵ダムをご覧ください。




向こうに胆沢ダムが見えます。




この子に逢いたかった。完成後ほとんど供用されなかった排水塔だが素敵なオブジェ?石淵ダムのシンボルといえるのではないかな。上に網張ってコンクリートがボロボロになっているのは地震の影響らしい。(石淵ダムは今まで二度の大震災を耐え抜いている。)






取水塔。ピンクでかわいい。



悲しい看板。今はあの素敵な排水塔も取水塔もゲートも跡形もなくなりコンクリートの塊となってしまった。
右岸側(ダム本体にもっと近づく)行くにはここを通らなきゃ行けないのか。どうするムー?

ササッ 来ちゃった。

ちょっと崩れてるのも地震の影響。
とっても頬ずりしたかったけど止めておいた。笑
そのかわり手で触れてみた。暖かかった。撫でながらお疲れ様でした。今までありがとう。といって一礼した。おうよって答えてくれた気がした。

石淵ダムは高さ53メートルのダムで日本で最初に施工されたロックフィルダムである。コンクリートで上流部の水を遮る日本では5基しか存在しないコンクリートフェイシングフィルダムの一つだった。
終戦を迎え日本は極度な食糧不足に陥り、食糧増産が喫緊の課題となった政府は河川開発に関して灌漑施拡充による食糧増産を目論見、北上流域は江戸時代より一大穀倉地帯として稲作が盛んであったが北上川本流は松尾鉱山により流出する強酸性の坑内水により河水の酸性度が高く、農業用水には不適当であった。このため支流の河川を開発して灌漑用水を整備して農地拡大を図り食糧を増産する方針が採られ、1945年より国営事業として山王海ダムの建設が紫波郡で開始された。一方治水に重点を置いていた北上川上流改修事業についても灌漑整備優先の観点から、広大な胆沢扇状地を流域に持つ胆沢川の河川開発が注目されるようになり、以上の経緯により戦前より着手されていた田瀬ダムの建設を中断(太平洋戦争の激化により資材確保がままならなくなった)したまま胆沢川上流の多目的ダムが優先的に着手された。これが石淵ダムであり胆沢郡若柳村において1945年より建設が開始された。
それに伴い13世帯が移転を余儀なくされたが、食糧難解決という差し迫った国情が背景にあった中、工事を開始してから住民への補償交渉を開始するという状態であり、建設省の態度は移転交渉というよりは立ち退き要求に近いものがあった。ダム建設開始当時は日本国憲法の制定前であり、生存権など基本的人権はまだ浸透していなかった。さらに移転後の住民に対する生活再建対策も放置され、結果的にわずかな補償金しか受け取れなかった移転住民は失業の上困窮した生活を強いられ全財産を喪失した住民も現れた。最終的に再補償も認められなかった。住民がこういう辛い思いしてできたダムをなくしてさらに大きいダムを作らなきゃいけなかったんだろうか。
当時は重力式コンクリートダムとして計画されていたが、戦後の特殊な事情(セメントは進駐軍用あるいは戦災復興用の資材として優先利用されていたため。)によってロックフィルダムの場合は日本では施工例がなかったものの、ダム付近の地質が風化に乏しい良質な石英安山岩で、かつ発破により大量の岩石が採取可能であったことからセメント量と輸送コストの節減が期待され1946年より日本初のロックフィルダム施工が開始された。
まず、ダムサイト直上流部にある猿岩が堤体の材料となる原石山に選定され、これを火薬で爆破して岩石を採取しダム本体工事現場まで輸送。本体予定地に建設した橋の上より岩石を投下して、これを高圧水で締め固めてダム本体を盛りたてる工法である。昼夜兼行、厳寒の冬季にも作業が行なわれ、戦後の混乱期の事業であったことから資材や建設機械の不足、さらには労働力の不足に絶えず悩まされた。また、労務者の安全管理に乏しい時代で、頭部保護の保安帽を着用する労務者はなく作業着すら統一されていなかった。
さらには労働力不足を補うため服役囚が工事に従事する状況で厳しい環境の中で労務者はどぶろくを飲んだりし鋭気を養ったが、酒のつまみに死んだウサギを調理して食べた職員が野兎病に罹患するなどのハプニングもあった。こうした厳しい労務環境の中で述べ181万人の労務者が建設に従事し、1953年6月9日にダム本体は完成した。ダム着工から8年の歳月を要した。
幾多の困難があったがその後、慢性的な水不足から解放され安定した水供給が可能となり、水争いが根絶された胆沢扇状地の受益住民は報恩の意味を込め「胆沢平野小唄」という小唄の一節に石淵ダムの名を入れている。
照ればかんばつ 曇れば出水 それも昔の語り草 見れや自慢の 石淵ダムは 伸びる胆沢の 底力
本当は9月いっぱいで役割を終える予定で10月1日には胆沢ダムとの引き継ぎ式が行われる予定だったが、なんとその日に台風17号が襲来し石淵ダムに過去5番目の大雨の流入があり、管理終了予定を延長して10月2日まで洪水調節を行ったという。これを打っている間も胸がいっぱいになり泣けてくる。最後の最後までなんてかっこいいおじいちゃんなんだ。
これで石淵ダム本来の役割は終えたが今後は堤体本体はそのまま残り、湖底の土砂が下流に流れ込むのを防ぐ「貯砂ダム」として新たな役割を担うことになるそうだ。じゃあ、渇水期には石淵ダムに逢えるのかな。その時にはまた行きたいと思う。本当に本当に逢いに行ってよかった。石淵ダム、ありがとう!!
後編はまたまた可愛いこの子です。ふふっ


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